猫を追うより皿を引け

日々ぼんやり考えていることを残します。

2016/1/11 〜思いを巡らせるということ〜

11日は夢の国にいて、いつ来てもごみひとつ落ちてないねとか、キャストの意識の高さはどこからくるもんなんだろうとか、7000円近くに値上がりしてるから家族連れは大変だね、なんてまったく夢のないことばかり話しながら、のんきにねずみのシルエットを型どったピザを食べていた。

図らずも成人式だったので、場内には振袖姿の若者がわんさかいるという珍しい光景が広がっている。それを避けてか休日のわりに空いていて、サクサクとアトラクションを回れていた。唯一、スプラッシュマウンテンはFPも取れず小一時間の待ち時間だ。すっかり退屈してしまった私は、昨日から見てなかったtwitterをなんとなしに開けた。すると、『デビッド・ボウイまじか・・・』『うそでしょ』というつぶやきがワンスクロールに押し寄せている。ソースをたどって事態を理解し、「これ本当かな?」と隣に画面を見せると、驚きの反応とともに、一拍おいて「タケダさんもいっちゃったね・・・」と告げられた。タケダって?え?どのタケダさん?と、わかってて信じたくなくて何度も聞き返したところまでははっきり覚えている。

 

竹田圭吾さんのことを認識するようになったのはいつの頃だったか。私がまだ目黒で働いていたころ、朝、会社近くのコンビニで時折お見掛けしていた。『とくダネ!』終わりで会社へ向かう竹田さんと、遅い私の出勤時間が重なっていたようで、いつもその曜日は、今日は会えるかな、会えたら話しかけようかな、とわくわく会社に向かうのがひそかな楽しみで、勝手に親近感を持つようになった。

コメンテーターの役割は、広い知識を持ち扇情的になることなく、他の出演者から抜け落ちている視点を視聴者に提供することだ。そう仰っている通り、まさにいつも鋭い角度で端的なコメントをされていて、私はそれを、「そうそう!よく言ってくれた!」と大きくうなづいたり、全く考えに及んでなかった内容に唸り、事件や問題の見方が変わることもあった。ある意味空気を読まない、例えばお涙頂戴路線の雰囲気を一刀両断するコメントで、MCが苦笑いでCMへという画面を見る度に、最高だな、こういう人がいてくれてまだまだテレビを見る意味はあるな、と気づけばいつも竹田さんのコメントを待つようになっていた。

 

長期の療養から復帰された後も、少しずつ痩せていく様子に、どうしたのかなと不安になりつつも、毎週のラジオもテレビも出演されていて、きっといつかよくなるのでしょう、と言いきかせていた。

病気の事、自身でほとんど語ってらっしゃらないが、昨年9月にテレビでがんであることの公表し、その後Twitterで心持ちをつぶやいていた。

「がんというのは、必ずしも『襲われて』『闘う』ものではない」

「ちょっと違う種類の人生が続いているだけなんだ」

 ちょうど身内が同種の病を抱えたばかりで、静かに深く混乱していた私は、この言葉にどれだけ救われたか。

また同時に、

「どれだけ治療が順調で、家族に寄り添われて、友人や仕事仲間に励まされても、孤独からは絶対に逃れられない。」

 とも吐露していて、どれだけデカくて冷静な人間でも、つきまとう不安は拭い去れないのだと知った。私の身近な大切な人も、今同じように感じているのだろうか。

 

 J-WAVE『JAM THE WORLD』聴きながら晩ご飯作るの好きだったな。声が心地よいのだ。政治や経済のこと、難しくてわからないことだらけだったけど。降板を決めていた1/11のエンディングで何を話したかったんだろう。最後にリスナーに伝えたかった事ってなんだったんだろう。「赤福氷はマジでうまい」とかかな。

 

もう天邪鬼なコメントを楽しみにできないことも、落ち着く声のラジオが聞けないことも、おちゃめなツイートが流れてこないことも、今はただただ寂しい。でも、苦しい痛みと孤独から解放されたのかと思うと、どうかどうか安らかにとお送りしたい。「複眼思考」を胸に刻んで心になじませて生きていこうと思います。これからもずっと大好きです。

 

そうだ。隣の人。朝すでに訃報を耳にしていたのに、伝えないでいてくれてありがとうね。こういうちょっとした想像が人と人とを強く繋いでいく。

 

コメントする力

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