猫を追うより皿を引け

日々ぼんやり考えていることを残します。

脳への影響

2017/9/13

本当に突然のことでした。
朝、病院につくと昨日と同じように、ベッドに腰をかけていて背中を向けていたので「おはよう」と声をかけたのですが、返事がありません。
あれ?っと思って正面にまわると、目の焦点が合わないまま床をを睨みつけているので、驚いて両肩を支え「お母さん、大丈夫?どうしたん?」とゆすると、「うーーーー」とこれまで聞いたことのない大きなうめき声を上げました。昨日はこんなことなかった、なにこれ?こわいよ、どうしよう、どうしよう、とただただオロオロしていたら車を停め終わった父が病室に入ってきたので、首を振り「ダメだわ」と言うと、父が母を抱きしめて、背中をさすり、大丈夫、大丈夫と、その発作のような状態が治まるのを待ちました。

 

翌日に帰省予定だった弟に連絡し、急変してるから、すぐに帰ってくるように伝えました。びっくりしないように、と添えて。


先生に診てもらったところ、脳に転移がある感じがするのでCTとりましようとのことで、すぐに検査をしました。
結果は、脳梗塞。言葉を司るところが血栓ができてるとのことでした。

 

昼以降は、朝の錯乱状態ほどではありませんでしたが、痛みが強く痛い痛い、と苦しそうに体制を変え続けていました。

食事は、ほんの少し口に入れただけだったと思います。お茶は何度か飲めていました。大好きな玄米茶。この世の唯一の幸せかのように、大事に、とっても美味しそうに。

まともに話せた最後の日

2017/9/12
朝、病室につくと昨日と同じようにベッドに腰掛けていました。「おはよう」と声をかけると、「痛い、痛いんや、夜が長かった、ほんまに長かった」と振り絞るように訴えてきます。どうしよう、どうしたらいいんだろう。助けてあげられなくてつらい。


先月くらいから、自宅でも少し父が視界にいなくなると、どこ?どこにおるん?と探しまわる、と聞いていました。今まで、人に頼ったりする人じゃなかったのに。
痛みと、死がせまる恐怖がつきまとっているのかもしれません。
この日は、朝一口だけ食事をして、もう充分だと箸を置き、痛み止めの麻薬オキシコンチンを飲むと、座ったままの体制で一日中寝ていました。


昼下がりに少しだけ目を覚ますと、私がまだ小学生の頃、お稽古ごとの帰りによく寄ったコロッケ屋がこの近くのはず、お昼に買ってきてもらえばよかったな、と懐かしむので、明日行ってくるね、と話しました。
これが、まともに会話ができた最後の1日です。この時は、まさか明日以降こんなことになるとは想像できてなかったのですが。

ホスピス

記憶が薄れないうちに、9月のことを書いてしまいます。

 

2017年9月11日
満員電車に揺られながら赤坂の会社に向かっていると、父から「日帰りでもいいから帰ってこれないか。お母さんが会いたがってる」とLINEがきました。

8月末に顔を出したばかりだし、あまり甘えてこない母がそう言ってるなら、もういよいよ覚悟をしないといけないのかもしれない。会社について、事情を伝えるともういいからすぐに帰れ、と荷物を持たせてくれました。

 

病室につくと、ベットに腰かけ前かがみになった母がいました。
「お母さん、帰ってきたよー」と話しかけると、もうあまり身体が動かないのか、ゆっくり振り返るようにして、「悪いなあ」と答えました。よかった、しんどそうだけど、ちゃんと会話できてる。
ちょうど夕飯が運ばれてきて、「ここの病院食はまごころがこもってておいしいんや。でもこれはイマイチ、ぶどうは甘くてすごくおいしいからひとつ食べてみ」とたわいもない時間が過ぎていきます。
「ほら、もうあんたらええで。帰ってビールプシュっとせな」
時計に目をやると20時をまわっていたので、じゃあまた明日くるね、と父と自宅に帰りました。

 

辛いとこを他人に見せることをよしとしない人が常に眉間にしわを寄せていて、相当痛いんだろうな、私たちに何ができるのか、と父と話しながらその日は布団に入りました。

ホスピスに入って2週間が経っていました。

友達からの言葉

がん宣告を受けて間もなくは、もしかしたらお母さんが死ぬかもしれないと泣いてばかりで、誰かに受け止めてもらいたくて、近しい友達にだけ話をきいてもらいました。

その時友達から言われた言葉を、母の死を迎えるまで、私は大事に抱えて過ごすことになります。

彼女は、ご両親をすでに病気で亡くしていました。その時のことを振り返って
「でも、病気が分かってから亡くなるまでの一年半が今までで一番幸せだった」
と言うのです。

 

驚きでした。
私たち家族は、絶望の淵に立たされていて、これから辛く悲しい日々が続いていくものだと思っていたのに。

そうか、幸せな日々にしよう。
沢山実家に帰って、家族で過ごそう。

彼女が放ったその言葉がずっとずっと私の支えでした。どれだけ救われたかわかりません。とても感謝しています。

 

がんの宣告

事の始まりは、2015年7月。
母の鎖骨付近にしこりが出来て、なんだか痛いので病院で検査を受けたところ、「すい臓がん ステージ4b」である、宣告を受けたとのこと。
この話を聞いたときは、すでにしこりの除去手術をうけていて、全くもって元気でした。胃がんの時もそうだったけど、全然信じられない。もう一回検査したら?って思うほど。所謂末期がんでもこの状態なので、初期なんかぜんぜんわからないんだろうな。
「おかあさん、はげちゃびんになるかもしれないけど、がんばるからね」とメールがきて、泣いたのを昨日のように思い出します。

愛する母のすい臓がんの最期

父に呼ばれて東京から香川の実家に帰った時は、まだ会話ができていたし、このまま緩やかに衰弱して、穏やかに送ることになるだろうと思っていました。

 

母の最期は、テレビや、映画や、聞く話のような、美しく安らかにというものでは到底なく、私たち家族は地獄の時間を過ごしました。「闘う」といっても何と闘っているのかわからないし、それがガンという病気なのであれば、口には出さずとももう勝ち目がないことは頭の奥底で理解していたと認めざるを得ません。しかし、その渦中にいるときは終わりがいつなのか、本当に終わりがくるのか、きて欲しくない、でも覚悟をしておかないといけない、そんな自問自答の時が慌ただしく流れました。

 

苦しいのは私じゃない。
絶対に泣くものか。

 

歯を食いしばり続けた12日間。
母の生き様、死に様を記録しておきたくて、今、パソコンに向かっています。

 

Caravan@日比谷野外大音楽堂 2017.5.7

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Caravanの野音は、いつも自分と深く向き合う時間となるわけで、今回もそれはいつもと変わらないのだけど、終始ノスタルジーにかられて胸がざわめいたのは、ファーストアルバムから6曲も演奏してたからだったと帰ってから気がついた。

白い花のような飾りで覆い尽くされた、いつもに増してスピリチュアルなステージに、Caravanはたった1人で立っていた。11回目の野音。ここに立ち続けることが当たり前ではないことは小屋を押さえる運のみならず、大きくなりすぎても小さくなりすぎてもダメで、「消えない炎を燃やそう」という本人の『Camp』そのものの難しさだったりする。

今回1番驚いたのは、中盤で、客席に設けられたサブステージでの演奏になった時だった。たまたま私はステージのすぐ後ろだったので、歌うCaravanの目線でお客さんの顔を見渡すことができた。気持ちよさそうに一緒に歌う人、目を輝かせて食い入るようにみる人、音に委ねて身体を揺らす人。想像をはるかに超える幸せでエネルギュッシュな光景がいつもCaravanに向けられているのか、そうだったのか、と大きく頷いたりした。

降水確率ゼロパーセントの東京だったのに、ボタボタっと通り雨。「前よりよくなったでしょ?」と苦笑い。晴れては空を仰いで感謝し、雨が降れば恵みの雨さ、と笑えばいいことも、この11年で教えてもらったことのひとつかもしれない。

確かめるように、赦すように、祈るように響く歌。
また、それぞれがそれぞれの巡礼を続けて、ここに集うことができますように。